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灰色の世界の記憶・・・ペイル・コクーン論(草稿)
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#23   2007/05/09(水) 02:47   投稿者: 倉橋克禎

「灰色の世界の記憶」・・・ペイル・コクーン論(ドラフト)
※ネタバレあり

 ペイル・コクーンと題された「原案/脚本/制作/監督」を一人でかねた吉浦康裕氏の2005年に公開された作品は、「pale」+「cocoon」つまり、「灰色の血の気のない繭」という意味である。アニメの舞台となっているのは、人類の歴史の連続性が途絶え、廃墟のような世界において「記録発掘局」に勤めるウラ、リコ、同僚の3人からなる世界である。この灰色の世界では、円筒形の地中深く掘られた井戸の奥で生活をしているように見える。そして、空からはマリン・スノーのような白い雪が降っている。映像を経済的に圧縮しようという意図もあるのだろうが、この映画では地中に埋められた塔のなかで物語が展開される。ボルヘスにバベルの図書館という作品があり、バベルの塔のなかに埋め込まれた書物を解読している図書館員たちの短編物語があるが、このペイル・コクーンは、バベルの図書館の風景を現代という舞台装置のなかでSFとして再構成されたようにも思える。

 ペイル・コクーンは、パーソナルCGアニメというジャンルのなかで何が可能であるのかということについて多くのことを教えてくれるのだが、その美しい音楽や音の効果と閉鎖された空間とその外を暗示的に表象させるその構成において独自のスタイルや形式を獲得していると言えるだろう。パーソナルCGアニメというジャンルにおいてその可能性は、閉じられた作家の内的世界と外部をいかに表象するかという点においてフォーカスされると言えないだろうか。CGアニメは通常のアニメの予算だとか、投資効果なりの「商業」的制約をより受けないためにより実験要素を作品のなかに盛り込むことが可能になるのだが、CGアニメが個人やごく少数で作成されるためにより作家性が際立つことになる。もちろん、作家が、実験性という冒険性を手にすることは長所ばかりではない。作品を構成する個人の延長でしかないリソースの規模が物語性だとか作品が構成する世界の豊かさを縮減させる方にしか働かない場合の方が多いとも言えるだろう。
 だがしかし、ペイル・コクーンは、こうした個人という単独性をモノトーンの色調の閉じられた世界に配置することで作家性を際立たせることに成功したのである。ここでは、ウラが「記憶発掘局」に勤務する世界は閉じられたパーソナルなCG空間を表現するが、一方で、ウラが発掘する「記憶」の断片は「蒼い繭」としての「地球」=世界を暗示するのである。内的に閉じられた形式それ自体が、その世界を構成する「あったかも知れない」その内的な世界それ自体を内部に持つ「外的世界」を暗示し、記憶の痕跡としてそれが一瞬だけ世界を見せるのである。記憶の断片が共鳴しウラが記憶の断片が写された映像を見回すときにそうした全体性が回復する「希望」を表現する。こうした構造が、永遠化され空間性として永遠の時間のなかで語り出される瞬間は、「YOKO YAMAGUCHI」の映像の断片が再生される瞬間だろう。この時、『蒼い繭(あおいたまご)』と題されたPop調の曲が世界を優しく包み込み、形式から内容への横滑りが認識の中で生じ、音楽の調べにあわせて作品の外部の観客と作品が一体化される瞬間がイマージュとして屹立するのである。CGアニメの最後が「あおいたまご」=灰色ではない「蒼い繭」としての地球が映し出される映像で終えられることは偶然ではないのだ。ペイル・コクーンは、ミニマムなモノトーンの世界を選択することで、世界を指し示す自由を得るのである。
2007.5.9(倉橋)

ペイルコクーン:
東京国際映画祭招待作品/第一回札幌国際映画祭にて脚本賞受賞
http://www.studio-rikka.com/page/pale/pale_top.htm
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このページのURLは http://doga.jp/tkbbs/tkbbs.cgi?bbs=reviewer&number=23 です
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